「大人の遠足」で釧路に行ってきた。中小企業の経営者ばかり男女七人のグループ。名付けて「釧路会」と称す。二〇一二年秋、所属する中小企業の団体の全道研修会が釧路で開催された。そのときに参加したメンバーが釧路の食のレベルの高さに魅了されて、帰旭後、毎月集まってワイワイやっている集まりだ。ここ三年ほど、「遠足」と銘打って一泊で釧路に出かけて、思いっ切り食べて、飲む。

 遠足は三回目かな。一、二回目は、釧路が生んだ建築家、毛綱毅曠(もづな きこう・一九四一―二〇〇一)が設計した建物を巡った。湿原展望資料館、フィッシャマンズワーフMOO、釧路市立東中学校(現・幣舞中学校)、釧路市立博物館…。釧路市内にはまだまだ毛綱作品があるようなので、来年は毛綱ツアーを復活させたいものだ。行ければ、の話だけど。

 今回は帯広経由で釧路に向かった。お目当ては、神田日勝記念美術館。あの、「書きかけの馬」の絵で知られる農民画家の作品をたくさん収蔵する美術館だ。全員が初来館。館内でもらった子ども向けの小さなガイド冊子から引用しよう。

 ――神田日勝は一九三七年に東京で生まれました。そのころおきた日中戦争の“日本勝利”にちなんで「日勝」という名前になったそうです。一九四五年八月、日勝が七才のとき、戦争で被害にあった人たちが、政府に助けてもらいながら、農業で生活できるようにするための移住計画に参加して、家族で北海道鹿追町へ引っこしました。しかし、そのすぐ後に戦争がおわると政府の助けも十分でなくなり、一家は慣れない農業をしながら苦しい生活をすることになりました。

 ――ちいさなころから絵を描くことが大好きだった日勝は、中学生のとき、お兄さんから油絵を学びました。中学校卒業後は馬や牛の世話と農作業でとてもいそがしいなか絵を描きつづけ、北海道のいろいろな展覧会に出品しました。

 ――僕にとって/絵を描くということは/排泄行為と同じかな。/我慢できなくなったら/漏らしてしまうだろう、/あれと同じかもしれないな(神田ミサ子著「私の神田日勝」一九九七年、北海道新聞社)

 ――日勝は病気になって一九七〇年八月に三十二才の若さで亡くなってしまいます。(引用終わり)

 美術館では、釧路市立美術館との所蔵品交換展が開かれていた。日勝と同時期に十勝や釧路で活動した画家たちの作品が並ぶ。作品に添えられた略歴をみると「北海道学芸大学旭川分校卒」という画家が何人もいた。ひょっとして自家用車などは高嶺の花で、道路事情も格段に悪かった半世紀も昔の方が、上川と十勝の人の交流は盛んだったのかもしれないな、と思った。

 一日目の昼食は、「帯広で一番」という蕎麦屋でとった。そばは、色白で細い。更科系というのかな。量はかなり多めで、味も格別でした。この遠足では、途中のメシは外れが少なくないのだが、珍しくアタリだった。

 釧路の夕食は、レストラン泉屋の地下、イタリアンの店が一軒目。そして釧路で一番の高級店という、酒蔵オーナー推薦の寿司屋へ。みんな遠慮会釈なく注文して、勘定は一人一万円強だった。翌朝、ホテルの朝食ビュッフェには見向きもしないで、いつもの炭火焼の店「鮭番屋」で朝から生ビール。メンバーの農業法人社長の物産展仲間が焼いてくれる魚介の美味いこと。白ご飯をバクバク、あぁ日本に生まれてよかったぁ。これを味わうために釧路まで出かけて来たのだー、という感じ。

 帰途、阿寒のリゾートホテルで出稼ぎバイトをしている北京在住のKさんの顔を見に立ち寄ってから、津別町の「シゲチャン・ランド」に向かった。NHK・BSの「日曜美術館」で二年ほど前に紹介された「北海道・謎の美術館 “シゲチャンランド”」を観たメンバーの一人が、「どうしても行こう」と誘ったのだった。

(工藤 稔)

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