六年ぶり、いや七年ぶりになるか、東京に行ってきた。目的は三つほど。一つは、本紙五月十一日付で紹介した、木工芸家の瀬戸晋さん(44)が銀座のギャラリーで開いている作品展を覗くこと。二つ目は、東京の学生時代から、所帯を持ってからも面倒をかけたおすし屋さんにお邪魔すること。三つ目は、友人の会社、家具・インテリアメーカーのコサインが新宿・高島屋に商品コーナーを持ったというので、そこを視察すること。ついでに、今春から東京で一人暮らしを始めた娘の様子を見てきた。
雨の夕方、銀座五丁目のギャラリーでは、目の前で、若い女性客が瀬戸さん作のお盆を何気ない様子で購入した。一つずつ、丁寧に彫り込み、木目やノミの跡を生かしながら漆で仕上げた、なんとも温かなお盆。お値段は、一万六千円也。ギャラリーのスタッフによれば、「ブランド物のバッグを買うのに比べれば、お安いという感覚だと思いますよ」とのこと。お金の感覚が、対鳩山元総理の場合とはチト違うが、旭川の田舎者とはかなりギャップがある感じ。
くだんのおすし屋さんは、昨年秋、脳梗塞で倒れ、それを機にお店を閉じたという。今さらながら聞けば、私よりも二十歳も先輩だった。ご主人は右半身に麻痺が残る状態だが、相変わらずニコニコとして、奥さんは歳を取らないのではないかと思われるほど若く、美しく…。
やめよう。書きたかったのは、それではない。今回の上京で、もう二度と東京には行く必要がないな、と強く感じたということだ。あのアホみたいに巨大な都市に未来はないのではないか。よそ者の眼に映る東京は、汚くて、騒がしくて、息が詰まって、ただお金があれば少しヒトらしい気持ちになれるかな、そんな感じ。
私たちは、正当に、自分が暮らしているまちに誇りを持っていい。東京の真似は出来ないし、する必然性も全くない。方言を使おう、そして、たかだか百年とちょっとの歴史だが、それ以前のアイヌの人たちの文化や自然との関わり方も含めて、この地の風習や行事や食べ物をきちんと継承し、次の世代に伝えよう。森や川をあるべき姿に戻すよう努めよう。年寄りを敬おう、子どもを地域で育てよう――。
満員電車の中で、呆けたように携帯電話をいじり続ける都民たちを眺めつつ、こんなまちで暮らさなければならないなんて、なんてかわいそうな人たちだろうと、つくづく思った二泊三日の東京滞在だった。枕は、ここまで。
忠和にある東海大学旭川キャンパスが二〇一二年(平成二十四年)から、学生の募集を停止する。最長でも、あと五年で、旭川から一つの大学が消えることになる。大手の建設会社が倒産したり、丸井今井旭川店が閉鎖されたり、もちろん、それも大きな事件だが、東海大学のキャンパスが消えることは、桁違いの損失をこのまちに与えるに違いない。
私の周りを見るだけでも、道内はもちろん、道外から東海大学に入学し、このまちの企業に就職している友人、知人のいかに多いことか。一九七二年(昭和四十七年)に開校したあの大学がなかったならば、あの方とも、あの人とも、あいつとも知り合えなかった。彼は、学生時代に知り合った、地元企業の跡取り娘と結婚し、やがて会社を継ぐだろう。釧路からやって来た彼女は、いまや旭川のデザイン界をリードするような仕事をしている。その人材の広がりは、家具や建築の業界にとどまらない。
学生や教職員がいなくなる経済面の痛手よりもむしろ、そうした人的財産の損失が十年後、三十年後、五十年後…、ボティーブローのごとくこの地域を凋落へと導くことになる。
今さら「大学本部の決定だから、どうしようもない」と淡白に兜を脱いだかに見える旭川市の対応について、「例えば政治的な力を使ってみるとか、本部の人脈に近い人に接近を試みるとか、ありとあらゆる手段を使って存続を働きかけたのか?」などと批判してみても詮方ない。だがしかし、少子化社会の影響だからとあっさり諦めてしまっていいものかどうか。
このまちには、もう一つの私立大学、旭川大学がある。新学部を創設するなどして懸命の生き残り策を模索しているが、東海大学と同様に定員割れの状態が続き、その経営は楽ではないと聞く。東海大学のデザインや建築という、旭川地域の産業と深く結びついた学科を残しつつ、旭川大学の経済、保健福祉、短期大学の三つの学部を合わせて、独自色を前面に打ち出した個性的な地方大学を新たに創設できないものだろうか。
資金はどうする? なんて話は後でいい。とにかく、まずは、これまで東海大学が果たしてきた役割と価値を正当に評価し、なんとしても、学校の名前や形が変わろうとも、このまちにその大学を残さなければならないという気概を持てるかどうか。そうした人たちが、政治的な派を超えて、私心を置いて、結集できるかどうか。誰か言いだしっぺが現れるかどうか、だ。重ねて言うが、一つの大学が消える事態は、丸井今井どころの騒ぎではない――。